れは生まれつきのようだ

この頃、思うのだが、心身共に健康に産み育ててくれた両親に感謝している。
唐突な話ではあるが。
あまり悲観的でもない、楽天的な性格と、病気知らずの健康な身体、これは生まれつきのようだ醫美

子供時代は学校でイジメに遭っていた兄、姉の下で、ちゃっかり目立たない方法を自然に身に付けたように思う。
学年が上がるにつれ、成績面では、優秀だった兄、姉を先生が引き合いに出し、「それに比べてキミは、、、」と説教の種にされ、劣等感に苛まれても不思議ではない状況だったにもかかわらず、全然といってよいほど、めげていなかった。
たぶん、当時、家庭が大嫌いだったので、外の生活が少々悲惨でも、家のことと比べると、マシだったからかも知れない。
というか、子供の頃から先生など信じていなかった。

何かにつけ、結構、激しい家庭だったように思う。
わたしの価値観は、「悩み事や嫌な事があったとしても『人の生き死に』にまでは及ばない」というものだった。
子供の時からそう思っていた。
死ぬほど辛い、というのは精神的な比喩表現で、どんなに辛くても、実際に死んでしまうことはない、と。
生きるか死ぬか、そういうギリギリの線まで来ていない、切迫していない、と感じていた。
友人が、「ママに叱られた?」とヒステリックに泣き叫ぶ姿を見て、何が悲しいのか、まったく、さっぱり、まるでわからなかった。
蚊に刺される程度なんじゃない?と水原共生
まだ社会に出ていない子供であるわたしにとっては、家庭でのたいした虐待もなかったし、死に至るほどのことは実感出来なかった。

が、今の世の中の子供達を取り巻く環境や意識とは隔世の感がある。
わたしは時代背景も今とは違うし、苦労知らずなのかも知れないが、それなりに気苦労はあった。
生きるか死ぬかが判断基準の子供って、ある意味、度胸が据わっている。
というよりも、もっと、ちゃんちゃん敏速に機敏に動くべきだろう、子供は子供らしく。

話はコロッと変わるが、、、
昭和39年?40年に「小説現代」に連載され、今から半世紀も前に刊行された小説を今、読んでいる。
黒岩重吾。(1924?2003)
主人公や登場人物に対する感情移入がまるで出来ない。
当たり前だ。
環境が違いすぎる。
時代が違いすぎる。
感覚が違いすぎる。
性別の違いによる感じ方のギャップ。
読者ターゲットの違いpico 去斑

女性の考え方は、ああいうものではないと思う。
至極当然だ。
そんなにも昔の男性の書いた小説だから。
第一、わたしの父親世代。そう年齢は変わらない。
戦争出征経験者。
高度成長期の落とし子世代のわたしと感覚が違わないほうがおかしい。

努力が伴っていな

確かにお遊びである。
子供を置いてまで、家族に迷惑をかけてまで、必死の覚悟で日本を飛び出してきた気迫はゼロ。
あんた、何しに来たの?の世界だろう滅白蟻
一応、名目は語学研修なのだが、自分で言うのもへんだが、笑ってしまうレベルだった。
わたしはそういう、何か真面目風、まとも風、お勉強風を装って、たんに実体は遊んでいるだけ、ということが多い。
本人は真剣なのだが、実践レベルが低く努力が伴っていない。
パッケージや包装紙はカッコいいのだが、中身はお粗末そのもの。
表面の体裁を磨いて底上げしているのに過ぎない。
磨くべきは、中身なのに。
どうも、外側から中身に移行すると力尽きるようだ。
それなら、外側には目もくれず、黙々と着実に努力し積み上げていけばよいのだが。
若き日は、まずは外側から、器から、見た目から入ることが多い。

やがてメッキが剥がれるのには時間はかからなかった。
つまり、お遊びだけの人生体験に過ぎない時間を過ごした。
しかし、そのお遊びは、わたしの血となり肉となって、それ以後のわたしを肉付けしてくれている。
骨格や内臓は、生まれつきのものだろうけれど、オプションは彩り自由。

当時は若かったので、意気込みも強く、クラスメイトを寄せ付けないオーラを放っていた。
日本から一緒に行った人や、現地日本人とは絶対に話さないぞ!と決めていた。
なので、アフタークラスはいつも一人行動除甲醛
休日は、ホストファミリーの女性が、BFの家やお友達のパーティーに連れて行ってくれた。
その他の時間は、わたしは国籍不明の自由人となっていた。
現地に馴染みすぎるせいか、わたしは日本人に見えないこともあり、結構驚きだった。
ショッピングもよくして、日本でも30代はアメリカで買った服をよく着ていた。

だが、ホームステイ先から旅に出ることはなかった。
毎日、授業が終わって午後、ぶらぶら近場をうろちょろは出来ても、遠くには能力不足で一人では行けなかった。
そのあたりから、わたしの人を寄せ付けないオーラは変化していったようだ。
自立心は何処へ?
今となっては、幸運だったとしか思えないが、たまたま良い人に出会い、善意、善行を受けた。
運が悪いと、そこから不幸が始まるのだろうけれど、本当にわたしは運が良いとしみじみ思う。
だが、その出来事をキッカケに急に人生が大展開するかというとそうではない。
また運良く、楽しく元の位置に機嫌良く戻ることができた。
幸運の、善良な人物は、一人ではなく二人。
一人は、同じ授業を受けていたか、前後の授業を受けていた男性。
日本企業勤務で、英語研修のため現地在住?単身赴任?
もう一人は、同じアパートの住人のアメリカ人男性。
共通点は二人とも男性で、善人。そして、何よりも紳士!!!
あちこち、連れて行ってもらった。ミニ?ジャーニー。
結局、ラクして安心安全に観光を楽しんだ。
自立した行動どころか、親切な人々に助けられた格好になった空氣淨化抽濕機

られるかも知れな

わたしの疑問は、周りを見ていなさすぎて世間知らずのため、石を投げられるかも知れないが、、、。

なぜ、どこへ行っても元気な女性ばかりなんだろう?
元気ではない女性は、外に出ていないから目に見えないだけだとは思うが。
男性は、元気な女性(妻)に引っ張って来られるイメージ。
男性単独では、あまりお目にかかることがない。
登山とかされているのか。
バイクや自転車、ヨットや釣り、アウトドア、キャンピング、、、など、わたしが行かない場所で活躍されているかも知れない。
(あ、頑張って働いておられる姿は、あちこちでよく目にする)Sheffield 好唔好

あるいはマニアックな趣味を楽しんでおられ、ご一緒する機会がないからか?
グルメだのパックツアーだのには、何しろ(リタイア)女性が多い。
安易で簡単、便利、手頃、エネルギー要らず。
リタイアしていない女性も多いが、男性はあまり参加していない。
日頃のストレスが大きすぎて、何もしないことが、とりあえずは回復の第一歩か英國樓盤

限られた健康寿命、アクティブに使おう!!と積極的姿勢が皆さんに見られる。
もちろん、仕事をしている人もおられる。
さあ、どんどんじゃんじゃん活動しよう!とエイエイオー!とシュプレヒコールを上げたのは良いが、さてさて、やりたいこと、未体験、未知なことは?

わたしは保守的でめんどくさがりなので、今更やりたいことを一から探す気力はない。
それより、今までやってきたことの深掘りをして楽しみたい。
今からスカイダイビングには挑戦したくない。
飛行機にも最近は乗っていないから不安。
バスですら、ほんの2〜3時間揺られるだけで疲れる。
老化と贅沢。

歳取ると、トイレ確保にやたら敏感になる。
行きたくなくても、次、行きたい時に行けないかも知れないとなると、毎度毎度のトイレ休憩の時に無理やりトイレに行く。
脳と膀胱の希望など無視。
ではあるものの、脳が反乱を起こし、膀胱容量を超え氾濫しては困る。
ハンラン防止対策。

となると、遠い国や(標高が)高い場所にはもう行けないなあ、と。
近場深掘りコースに切り替えよう英國展銷會

部分を当てはめて

この逆に、どうしても思い出せない人名、単語など、必死で思い出そうとするが、思い出せなくてイライラする。
あ行から、あいうえお、と順番に、か行、さ行、た行、な行と次々、言葉の初め部分を当てはめてみる。
あかさたな、はまやらわ、ん、、、まで来ても思い当たらないと、また最初から、あかさたな、、、と、再トライ。
すると、あかさたな方式の検索結果ではなく、突然頭に浮かぶ。
つまり、ある程度の時間が経過すると思い出す、ということだ。
これは面白い。
わたしの脳の回路が暖まるにはある程度の時間がかかる。
オイルヒーターのようだ移民

つまり、、、
忘れたい嫌な感情も、思い出したい単語も、
時間が経過すると自然に自分が望んでいる方向に導き出される。

もちろん、この逆もある。
いつまで経っても忘れられない嫌な感情や、いつまで経っても思い出せない単語もある。
それはそれ買英國樓

これとは反対に、
いつまで経っても忘れられないプラスの感情、出来事や、いつまで経っても思い出せない大事なこともある。
あるいは、普段は無意識で何も思わないのに、何かが誘因となって、急に突然、思い出し蘇る気持ちもある。
こころの中に仕舞い込んでいるもの。

中には、わざと努力して鍵をかけて無理やり仕舞い込んでいるものもある。
トラウマの原因になったりする。
楽しい思いは、鍵をかけなくても、いつ思い出してもまた楽しくなってくる。

理由や状況はハッキリ覚えてなくても、感情だけが脳に焼き付くことがある。
プラス感情の場合もマイナス感情の場合も。
認知症になるとこれが顕著に現れることがある英國Leeds

しにとっては息詰ま

昨夜見たEテレ、20時から放送のテレビ番組「人生レシピ」。

ダントツに熱心に見る「ファミリーヒストリー」の次に、ちょっと好きな番組だ。
鶴瓶の旅番組は、見ない。なぜか、ノイズになる。
人が紹介する旅はあまり好きではないし、鶴瓶の旅番組は、人情味や家族愛、ほのぼの温かさが売りなのだろうが、かえって、わたしにとっては息詰まり、暑苦しい。

さて、昨日の「人生レシピ」。
いつなんどき陥るか分からない人生の苦境を、誰の中にも備わっている“レジリエンス”を引き出し、乗り越える方法を紹介する内容だった。
レジリエンス」、、、聞きなれない言葉。
たぶん、覚えられない。
レジデンス、レジエンス、って言いそうだ。
まあ、なにしろ、それを興味深く見た。
安藤和津さんが出演していて、一昨年まで鬱だったようなことを言っていた。

末期ガン宣告された、元タカラジェンヌが、深い絶望から這い上がるプロセスも紹介されていた紮肚
人がどう思うとか、人にどう思われる、とかではなく、自分がどう思う、自分がどうしたいかを軸に、ものごとを考えるキッカケになったようで、過去の呪縛から解放され、病気になる前より、今が楽しく充実しているとか。

わたしにも思いあたるフシがある。
人がどう思う、ではなく、自分がどう思うか、、、。
かつて、母が、「世間なんか人のことを言うばかりで、何もしてくれない」と怒っていたことを思い出す。
わたしが人間関係のことで少し悩んでいた時に、姉に言われたこともフラッシュバックする。
「あんたの悩んでいる人たちは、人がどう思うか、それが基準になっていて、自分が無い。すべて、人に映る自分。

○○したいが、▲▲さんに非難されるからできない、というのも。
▲▲のせいで、わたしは、○○できない。

非難や反対意見を恐れては何もできない。
自分が考えているのではなく、他人が考えていることに自分が振り回されている。
自分は悪者になりたくないから我慢する。
自己犠牲と引き換えに、非難されない自分を手に入れる。
かわいそうな自分、と、皆んな言ってくれる。
「○○できないのではなく、しようと思えばできるのに○○したくないだけだ」と姉が言った。
できない理由を他者のせいにする。
受動的、被害者意識が強い、自分を悪く言われるのが怖い、ただの臆病者だと。
こころを落ち着かせて、静かに自分の気持ちに耳を傾ける。
何、言ってる?
自分はどうしたいの?
他人のノイズはさておき、自分は?

の人は自分の力では

こころが、ヒリヒリ、チクチク痛い。
また、だ。再発。
この負の感情はなくならない。
抑え付けたり無理矢理取り除こうとしても逆効果になることがある。
で、次善策を。
その心理現象を起こす原因と見られるものから遠ざかる。
これですね。
根本から治すのではなく、対処療法。

かつて、30年?35年ぐらい前にもそういうことがあった。
どうしても自分のこころを納得させることが出来なかった。
その時の負の感情は、「不公平感」。
なんであの人は、最初からわたしより上の位置に立っているの?
努力や能力とは別のものが備わっていて、わたしが目指そうと汗水流して頑張っていることを、すでにその人は自分の力ではない力で、涼しくクリアしていた。
初めからわたしの理想とする目標のところからスタート。
わたしの頑張りは何??
と、すごく落ち込んだ。

で。
わたしの解決法は、、、。
その人に近寄らないこと。
人は人。
だが、近くにいると気にするなといっても、気になる吉屋清潔
だから、相手にあっちに行け!と言っても自分本位、身勝手過ぎるので、目に入らないところに自分が遠ざかる。
そうやって、こころを鎮めた。
逃げるが勝ち。
(これはちょっと意味が違うか。
勝って逃げる場合に使ったりする?
いや、勝てない場合に逃げる?)

今回もその方法を取る。
そして、神様からの援軍があった。
ものすごく力になる。
救われた。
わたしって、よほど日頃の行いが良いのかしらん??
いや、対策を講じるのが遅すぎる、、、。
もっと早くから対処すべき。
ぐずぐずしている時間の分、自分の領土が減り、疲弊した。
お尻に火が着いても動かないタイプであるわたしは、本当に困りモンである。
さすがに、心臓を頂きます、と事態が深刻になると、腎臓ならどうぞ、でも心臓はやめてね、となる。
腎臓の前に、盲腸ぐらいはあげている。(元々要らない)
とかなんとか、打たれ強いわたしではあるものの、けっこう傷ついたが、たいした学習にはならず、全力で撤退することにした。
負け戦である。
でも、命まで取られないから大丈夫。
傷が深くなる前に、神様からの援軍にしがみつくことにした。

成長衰退の放物線を

成長期ではないので、今の林住期ならではの答えがある。
ひとつには、自然法則として(学校で理科の授業で学習する)、生まれてから亡くなるまで、生物は成長衰退の放物線を描く照ct邊間好
理系、生物の法則とは別に、人としての内面、行動面での生き方を模索する。

わたしは社会的な面から見ると、幸せな過去、生い立ち、環境である。
精神的にもそう。
これからも続くと予想する。
そう言ってしまえば、ブログは一瞬で終わる。

ブログにも色々。
餃子食べ歩きブログを書く人、読む人にとっては、わたしのブログなど、一瞥の興味も接点もない。
当たり前。
わたしは気分次第でたまたま餃子ブログを読むと、美味しい餃子を食べたような気にはなった。
興味がないわけでも、嫌いなわけでもない。

人には好き嫌いがお互いにあって当然。
ない方が怖い。
だから、何?
いえ、べつに、、、

優越感も劣等感も、能力や環境、置かれている立場から生まれる。
客観的な指標のようなものも政府が示したりすることもある。
世間では普通、並。
それに比べると自分は盆腔超聲波檢查、、、
となるが、政府の数字から一喜一憂するのではなく、自分の毎日があまりにも辛いとか、味気ないとか、虚しいとか、マイナス感情に苛まれた時に、公表されたデータなどで、自分の状況の答え合わせをする。
プラスの状況の時は、あまり世の中の動きは気にならないのではないのではないだろうか。
楽しい時間を満喫することに貪欲で、他の人はどうなんだろう?などと、どうでもよいのでは。
で、、、だから?
いえ、べつに、、、

歯切れが悪い。
入れ歯のせいか?(嘘です。入れ歯してません)

長々と何が言いたい?
今、わたしは浮かれている。
有頂天になっている。
自慢したくてウズウズしている。
だが、、、わざわざ人に言いたい自分を抑えたい自分がいる。
厄介です。ウズウズちゃん。
ウッ(鬱)ちゃんより、マシ。

そもそも、わたしはウッちゃんとは無縁。
こころが、強い。
ナイーブ、繊細ではない、無神経、デリカシー不足。
しかし、もっともっとこころが強い人々もいる。
人の気持ちを解さない、寄り添わない。
人に全く沿わない。
そんな人にはウッちゃんは近寄りもしないだろうが、そのかわりに周りの人にウッちゃんは、やってくる。
產後減肥変。